両腕を失っても夢は捨てない ~絵描き 水村喜一郎
両腕を失っても夢は捨てない
■プロフィール
氏名:水村 喜一郎(みずむら きいちろう)
肩書:画家・口と足で描く芸術家協会会員・主体美術協会会員・日本美術家連盟会員
1946年7月東京都、とび職の長男として生まれます。
9歳の時に高圧線に誤って触れ、両腕を肩から失いました。
以後、手の代わりに口と足を使い、生活の全てにわたって何事にも果敢に挑み、自助の精神を貫き通しています。
14歳の時から口に絵筆をとって、油絵を描き始めました。
17歳の春に初めて公募展に入選。
これを機会に油絵への情熱が高まり、めざましい上達を遂げました。
画家を志し、障がいを克服し、画家として自立します。
静寂と安らぎを宿す世界を独特の美しさで描き、「描く詩人」といわれ、技術とその絵の持つ力は傑出しています。
1970年 獨協大学外国語学部英語科卒業
1974年 主体美術展入選、以後毎年出品
1977年 初の個展を開催(愛宕山画廊)、以後個展の開催は多数
1981年 主体美術協会会員に推挙される
1994年 『風景の匂い-水村喜一郎画集』出版
2001年 『水村喜一郎竹紙絵集-旅で出会った風景とこころ』出版
2002年 エッセイ『両腕を失っても夢は捨てない』出版
2013年 水村喜一郎美術館開設(長野県東御市海野宿)
2016年 『水村喜一郎画集』出版
両腕が無くなったから、絵を描き続けてこられた
東京の下町出身で、父はとび職の親方でした。
長男のため、幼いころは家業を継ぐものとして育ちました。
しかし、やんちゃで遊び盛りの9歳の時、遊んでいる最中に高圧電線に誤って触れ、感電し、両腕を肩から失います。
とび職はできなくなりました。
みんなが助けてくれたから嫌な思いはしなかった
退院して学校に戻ったとき、友人たちが温かく迎えてくれたことを強く覚えています。
多少の不自由さはありましたが、先生、友人たちの暖かい応援のもとに、障がいを苦労と思わずに育ちました。
手がないとできないことはたくさんありますが、手がなくてもできることは、想像以上にあるもの。
できることを探して、もっとうまくできるようにする。
何事にも工夫をこらし、障がいを乗り越え、世界が広がっていきました。
描けることが嬉しくて嬉しくて、描きまくった
小学校で絵を描く授業の時、他の児童がクレヨンで描いている際に、先生が絵筆の柄にガーゼを巻き、水彩画に挑戦させてくれました。
絵は元々大好きで、目の前が明るくなりました。
手がなくても絵を描くことができると知ったときは、描ける喜びがあまりにも大きく、口で描く苦労など感じませんでした。
しかし、文字は勝手が違いました。
鉛筆をくわえて書いてみますが、ミミズが這ったようなものにしかなりません。
それでも先生は、水村にハンディキャップを感じさせないようにと、できなくてもやることの意志と努力を認めてくれました。
先生の励ましに応えるように、文字も上達していきました。
そして、興味の赴くものにも挑戦し、当時は足で彫刻刀を使い版画も彫りました。
英語好きにしてくれた先生
中学2年生の時に、養護学校の中等部に編入し、高等部へ進みます。
そこで絵の勉強を続けました。
学校ではひとり美術室に残ってデッサンをし、美術研究所にも通いました。
この養護学校では、長くお世話になる先生と出会います。
特に英語の先生には、夏休みや冬休みに先生の実家に一緒に行くほど、学びました。
いかに生きるかということに、目を開かせてくれた恩師でした。
英文科の私大を受験の際には、入学金を出すと後押ししてくれました。
また、この当時から、口と足で描く芸術家協会に奨学生として参加しています。
鹿児島までの徒歩旅行
大学生の時に、東京から鹿児島まで歩いてみようと決意。
英語の教員資格を取るための勉強をしている傍ら、絵の勉強も続けていました。
先生について指導を受けたり、美術関係の集まりに顔を出したり、絵描きとしての可能性も探っていました。
絵描きとして食べていけるようになりたい、そのための覚悟や踏ん切りのようなものを見つけたいと思っての決意でした。
警察官の計らいがあったり、たくさんの人にごちそうになったり、宿をお世話になったりしながら、45日間の旅はゴールを迎えました。
歩きながら将来について考えようと思っていましたが、実際はそれどころではなく、その日その日を無事に送ることで精いっぱいでした。
スケッチブック3冊と水彩絵の具を持って出ましたが、描くよりも歩くほうが中心。
絵描きになるという踏ん切りはつきませんでしたが、必死になればどんなことをしても食べていけるという自信はつきました。
先輩画家のすごさ
高校生の頃から、ある美術団体に出品していましたが、考え方が合わないことに気づき、出さなくなりました。
先生には可愛がってもらっており、今でも感謝していると言いますが、当時はどうしようもないことでした。
そんな頃、国画会のある重鎮の記事を読み、「すげえ人がいるもんだな」と思い、絵を見てもらおうと日参しました。
何度も通いつめ、ようやく絵を見てもらえることに。
水村が描いていたのは風景や静物の油絵。
工場や煙突や運河といった薄汚れた風景で、その先生の画風とは異なりました。
先生からエールをいただきましたが、やはり画風が異なることを指摘され、主体美術協会を紹介してくれました。
無謀で不躾な行為は承知の上で、直接会わないと分からないことがあると思い、飛び込んでいくのが水村のやり方。
絵描きの気迫を身近に感じることができ、それは代えがたい刺激となったそうです。
後に主体美術協会の会員となり、絵描きとして何とかやっていけるかもしれない、という自信のようなものが、ようやくできていきました。
一枚の柿の絵
1981年、国際障害者年に際し総務庁(当時)等の主催で開かれた「広がる希望の芸術展」に、「柿」の絵を出展しました。
その絵画展に当時の皇太子ご夫妻(現上皇上皇后両陛下)がご来場され、水村に絵の説明を求められました。
その後、東宮御所に招かれ、作品のご注文をいただきました。
芸術展会場で美智子様が「夕焼け」をお好きではないかと感じた水村は、夕暮れの風景『夕映えの鴨川漁港』を描きました。
その後も、上皇上皇后両陛下は水村の作品を評価され、個展にもご来場くださいました。
また、2013年に開館した「水村喜一郎美術館」(長野県東御市)にも、開館後すぐにご来館くださいました。
一目ぼれの紙、竹紙との出会い
40歳を過ぎたころから、油絵だけではなく、師と仰ぐ絵描きの勧めで水墨画や墨彩画にも挑戦を始めました。
それ以来、いろいろな和紙を求めるようになります。
そんな中で、思いかけず偶然の出会いがありました。
無漂白で厚みがあり、ゴワゴワ、モコモコしていて、いかにも手作り風の和紙。
見たとたん背筋がゾクゾクッとして、鳥肌が立ち、一目ぼれしたそうです。聞けばふつうの和紙ではなく、「チクシ(竹紙)」。
タケノコの皮を剥いで、それを集めて漉いている紙だそうです。
「竹紙は、僕の絵とは相性がいいような気がする。
他の和紙とは違った風合いだし絵の具の吸い取りも早いし、紙の肌に対する筆の動きも心地いい。
一発でスパーッと出来上がるのもあるし、何度も何度も塗り重ねてやっと仕上がるのもある。
とにかく一枚一枚の紙の性格が違っていて、描いていて気持ちいいのである」
絵を描くことが生きること
水村は、絵描きは絵がよくても悪くても、絵が全て。
手で描こうが、口で描こうが、同じ土俵で勝負しなければならないと思っています。
子どものころから「絵描きになれたらいいなぁ」と思っていましたが、現実になれるとは思っていませんでした。
しかし、どう生きていくかを自分自身に問いかけた中で、絵が好きで好きでしかたない自分を何度も確認しました。
好きなだけでは絵描きにはなれないですが、好きでなければ努力することもできません。
好きなことなら、どんなにつらくても、貧しくてもできるもの。
水村にとって絵を描くことと、生きていくことを切り離して考えることはできませんでした。
「これが僕だ」ということを表現する方法が絵だと思っています。
いろいろな出来事が背中を後押しし、ときには反発がバネになって、水村を絵描きにさせてくれたのでしょう。
その最初の出来事が、9歳のときの事故でした。
風景の中の人の匂い
「僕は風景を描く。
人の姿は登場しない場合もあるが、風景の中にある人間の匂いや営みを描きたいと思い、描いている」
「夕映えの運河の工場(川口)」 油彩画
「夕映えの運河の工場(川口)」について
「『キューポラのある街』という映画が昔あった。
おそらく自分が16、17歳の頃だったと思う。
キューポラとは鉄の溶解炉のことで、この映画は鋳物の街、埼玉県川口市が舞台の青春ドラマで、貧困、親子の問題、民族、友情などを描いていたような気がする。
あの当時の自分の問題とも絡めて見ていたので、うっすら覚えている。
ところでこの『夕映えの運河の工場』も芝川沿いのキューポラの工場である。
たまたまこの川沿いを通った時に『描きたい』と思った。
その後、数年前に行ってみたら懐かしい面影は全くなく、ただただ現代そのもののマンションが林立していた。」
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