「継続は力なり」 ~コツコツと絵を描き続けてきて今の自分がある~ 口で描く画家 飯原 孝
「継続は力なり」
~コツコツと絵を描き続けてきて今の自分がある~
プロフィール
氏名:飯原 孝
肩書:画家・口と足で描く芸術家協会所属
1970年1月新潟県生まれ。
16歳のときに交通事故で首の骨を折って神経を損傷し、手足を全く動かせない。
1年半の入院後、療養所に転院、隣接の養護学校高等部を卒業している。
あごで操作する電動車椅子に乗り、現在はヘルパーさんの助けを借りながら一人暮らし。
描画は、リハビリの一環で始め、養護学校高等部で美術部に所属した。
その後は独学だったが、近年には絵の先生から個人授業を受け、改めて絵の基礎から学んだ。
普通の生活から一変
幼い頃は両親が共働きの為、近所の人に預けられて過ごしていました。
お絵描きをしたり、プラモデルを作ったり、独りで遊んでいることが多い内気な少年でした。
それでも身体を動かすことは大好きでしたので、中学生になると軟式テニス部に所属し、打ち込んでいました。
16歳の時に突然の交通事故に遭遇し、首の骨を折り、入院。
手足の自由を奪われ、夢も希望も失いました。
そんな中、リハビリの先生から「出来る事を自分で考えてやることがリハビリ。
やりたい事があればサポートするから」と言われ、口に棒をくわえてパソコンを使ったり、ペンをくわえて字を書いたり絵を描いたりすることを始めました。
初めは筆が震え満足に線を引くことさえできませんでした。
その後療養所に転院し、隣接の養護学校高等部に通いました。
養護学校では美術部に所属しましたが、それは他の部活ができなかったためです。
音楽と美術の2択で、美術部を選びました。
少しずつではありますが絵らしい絵が描けるようになってきても、絵を本格的に描こうという気にはなりませんでした。
自分が嫌になり、絵から逃避することもありました。
絵以外でもパソコン・アマチュア無線・語学・鍵盤を棒で叩く演奏など、できることは何でも挑戦しました。
今後のことに迷い、足掻いていていました。
一つの希望の光
療養所から家に戻った後も、母やボランティアさんなどいろいろな人に支えられて、好きな絵を少しずつではありますが描き続けていました。
地元(旧白根市)には、畳24畳分もある武者絵巻で有名な大凧合戦というお祭りがあります。
30歳頃までは、人に自分の姿を見られたり、声をかけられたりすることが怖くて、外出をさけていました。
しかし、大凧合戦をどうしても観たくなり行ったところ、武者絵巻の鮮やかさや色使いが、昔の頃と変わらず綺麗で、自分もこんな絵を描きたいという思いが強くなりました。
それでも、絵が自分の人生を立ち直らせるものになるとは、思ってもいませんでした。
自分には何ができるのか?自答自問しているとき、口と足で描く芸術家協会に所属している、口で絵を描く画家の古小路浩典と知り合いました。
そして、協会のことを紹介してもらい、一つの希望の光が見えてきました。
絵を描くことで今までお世話になった人に恩返しができるのではないか、また、絵を通していろいろな人に勇気と希望を与えられるのではないかと思うようになりました。
協会に参加して
34歳で協会に参加。
奨学金を受け始めてからは本格的にいろいろな技法を学び、どんな技法が自分に合っているかなど試行錯誤し、日々絵に打ち込むことができるようになりました。
画材屋さんで専門書を買ったり、自分で描きたい景色の場所に行ったりと、外出することも多くなりました。
しかし、趣味で絵を描いていたころと、奨学金とは言えお金をもらって絵を描くという商業画家の違いに葛藤することも多々あります。
それでも絵が生活の中心となり、希望ある人生を過ごせるようになりました。
初めての自主企画「5人展」
2012年、台湾で行われた口と足で描く芸術家協会のアジアの画家ミーティングに参加。
普段なかなか会えない口や足で描く仲間たちと一緒に絵を描いて、食事をして、語り合うという経験をしました。
「またみんなで会いたいね」という思いから、「グループ展をやろう」という話に発展。
2013年に初めての自主企画の絵画展「5人展」を原宿で開催。
「5人展」には飯原の他に、南 栄一(長野県在住/口で描く画家)・古小路 浩典(東京都/口で描く画家)・石橋 亨弘(大阪府在住/口で描く画家)・梅宮 俊明(埼玉県在住/口で描く画家)が参加。
2016年には、長野で「5人展」を開催しました。
コロナ禍があり、外との繋がりは一層遠のいた日々を過ごしましたが、「5人展」の企画はいつも念頭に置き、いつかまた開催したいと願っています。
原宿での5人展会場にて、口で描く実演をする飯原 孝
かわいい姉妹との交流
2018年春の東京都新宿区市谷での絵画展にて、飯原が実演をしているときに、ファンだという小学生と幼稚園児のかわいい姉妹が来場。
飯原に手紙を書いて持ってきて、自分たちのおこづかいで買ったという一輪の花をプレゼントしてくれました。
飯原は、「今まで絵を描いていてこんなに嬉しいことはなかったので、すごく感激しました。画家として大変幸せなことで、協会に入って絵を描き続けてきて、本当に良かったと思った出来事でした」と、感動しました。
そして、自分に出来ることは絵でお返しすることだと、その場で姉妹のポートレートをデッサンし、プレゼントしました。
さらにそのデッサンから油絵を描き、姉妹の飼い犬も描き入れプレゼントしました。
姉妹にとっても大切な宝物と、温かい思い出ができました。
姉妹にプレゼントした油絵
2022年の年末にコロナに感染
第8波の中、注意はしていましたが、生活を支えてくれるヘルパーさんが感染したり、濃厚接触者となったりし始めました。
そして、本人にも風邪の症状が出て、すぐに喉が痛く痰も出始めました。
夜勤のヘルパーさんと交代の次のヘルパーさんが来るほんの少しの間に、痰が上がってきて息苦しくなり、これはダメだと次のヘルパーさんに早くきてほしいと連絡して難を逃れました。
訪問介護に来てもらい抗原検査をしたところコロナ陽性となり、一人で在宅している時間が危険ということで入院を勧められました。
救急車を呼びましたが、入院先が決まらず家の前で1時間以上救急車が動かなかったそうです。
病院ですぐにレントゲンを撮ったところ、肺炎を併発していて中等症と診断され10日間入院となりました。
入院中は隔離生活で人との接触を絶たれ、何もすることもなく、もちろん絵を描くもできず、天井を見上げてその模様から色々なことを想像していました。
ここから描くヒントがないか、などと思って見ていたそうです。
いつかは感染するかという恐怖を持っていましたが、感染するとこんなにも大変だったとは思っていなかったと言います。
完治後も脱力感が1ヶ月近く抜けませんでした。
「感染したことで、生活を支えてくれるヘルパーさんや、関わりのある方々に迷惑をかけてしまい、申し訳なく思います。
しかし、支援して頂いていることに更に感謝して、もっともっと可愛い絵やほっこりできるような温かい絵を描いていこうという気持ちが強くなりました。
春は必ずやってくるのですから。」
今後の目標を聞きました
「事故から退院後の養護学校高等部時代は、療養所で筋ジストロフィーの方と一緒に生活していました。
そのような友人が、既に何人も亡くなっています。
長く生きられなかった人々の分までも生きようと思いながら、今は絵を描いています。
絵に向き合っている時はあっという間に時間が過ぎ、つい身体をこわしてしまうこともありますが、毎日少しでも絵を描き続けていきたいと思っています。
『継続は力なり』です」
代表作とその作品についての本人の言葉
「ミニチュアダックスフンド」 油彩画
「この絵は、毛並みを描くのに苦労しましたが、多くの方に喜んでもらいました。
ある絵画展で実演をしている時に、この絵が好きだという幼い姉妹がわざわざ会いに来てくれて、手紙と一輪のお花をいただきました。
画家として今までやってきて良かったと思う一枚です。」
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